「カチナシオ」ってあります?
以前、TVなどによく登場していた木村花さんが、自殺して亡くなった。実に痛ましい事件だと思った。生きている人間が「自殺」という行為に至る「苦悩」を考えると、私にとっては実につらくなる。
経過としてはSNS上で、「生きているカチがあるの?」という言葉などで誹謗中傷されて、本人は、傷つきそうした行為に至ってしまったのかもしれない、と報道されている。
ところで、「カチ」という言葉をしばらく考えてみたが、私が知っている限りではどうも「怪しい言葉」として、しかし、人々の中では日常用語として使われていることがわかる。
「カチ」=「価値」ということについて考えてみたい。というか、私の中でも整理したかった、というのが本音だ。
PCで調べてみると、「倫理的な意味」や「経済学的な意味」で説明されている。色々説明されている。「どれくらい大切か、またどれくらい役に立つかという程度」「大切さ」「ねうち」にたどり着つく。
私が、まだまだ若かったころやはり「価値」は解らなかった。「価格」との言葉もあるということも含めて整理したい。
私が子供の頃には、大人たちは日常用語としては使ってはいなかったと思う。お前はそれでは「ダメ」なんだとか、それは「バカ」なこと、とかは言われてはきたけれど、「カチ無し」という言葉はなかった。親からも、「そういうことをしたらダメだ」とか「そういうことをするのはバカバカしい」とは言われたが、「そんなことをしてもカチ無し」とは言われなかった。だから、当自分自身の「カチ」なんていうことには考えにも及ばなかった。子供だったから、「ダメ」ということはやらなくなったし、「バカ」なことはしなくなる。自分をみるときにも「カチ」などという言葉では考えもしなかった。「カチ無し」と言われると、多分私も含めて、じゃぁ、どうすればいいんですか?ということになってしまう。
私が、16歳頃から、色々な書物を読むようになって、その中に、わたしがあまり好きでない「経済学」があった。その時に知った言葉に「価値」があった。そのころも、心に響いてはこなかった。しかし、近代ヨーロッパが誕生し、その頃から「経済学」が盛んに考えられてきたときに「価値」という言葉が登場してきたように思える。
例えば、一番の代表例が近代経済学者やマルクスの「経済学」がそうだ。大まかにいうと、労働の生産物には「使用価値」と「交換価値」がある、という妙な前提から始まる。そしてマルクスは「交換価値」の独自な展開とその法則性を考え始める。結果、資本論に集積されるのだが、やはり、マルクスにとっても「価値」があるとは言っていながらも、「価値」そのものについては言い及んではいない。
だけれども、「価値」という言葉は、「経済学」の中でしか成立しない言葉なのだ。「商品」には「価値」というものがあるという「みなし」によって「経済学」は成立している。だから、もともとは「経済用語」なのだと思う。
その後、色々な人が経済を語っているが、その大前提には「価値」があるのだ。
その言葉の歴史から言えば「価値」がいつしか「価格」になってしまった。こう言っていいのかもしれない、「ねうち」と。つまり、すべてのものには「価値」があり「ねうち」があると。いつしか、「商品」だけではなくて、どんなものにも「価値」=「価格」=「ねうち」があると。
つまり、「価格」という言葉で表現するとき、「価値」があるという前提がないと「経済学」は成り立ってはいかない。そもそも「経済学」とは「人間が生きる」という視点から見て、本当に必要なことなのか?との疑問が出てくるが、別な機会にしたい。
「価値」という言葉にも、「絶対的価値」もあるし、「相対性価値」があるのだろうがいずれにしても「価値」である。
つまり、「経済」のなかでしか通用しなかった言葉が、私たちの「いのち」や「存在」を表す言葉に転化してしまった。突っ込んで考えてみると「経済」に私たちは巻き込まれてしまったようだ。
私たちは、いつしか、どんなものにも「価値」があると考え、そういう言葉が「日常用語」として使い始めてしまった。
だけれども、やはり人々の中では「価値」と言ってしまうと、なんとなく「さむざむ」してしまうから、「カチ」として言うようになった。「カチ」の語源は「価値」なのだが、私には、歴史的には「経済学」というものを成立させるために、そういうものがあるという「みなし」によって生じた言葉にしかならない。「みなし」だから面倒くさい言葉を使うと「擬制(ぎせい)」になってしまう。つまり、「みなし=擬制」は、そういうものがあるのだろうという、妙な訳の分からない「大前提」によって成り立っている言葉としか言いようがない。私は、言語学者ではないので、「価値」という言葉の学問的定義はできないが、私にとっては、「価値」は、仏教用語を使えば「空」なのだ。つまり、本当に実体として在るものではなく、「空」だから「からっぽ」になる(勿論、仏教を知っていくと「空」は「からっぽ」ではない)。
そんな、言葉の歴史から言えば、はたして「価値」=「カチ」はあるのだろうかと考えてしまう。
何を言いたいのかと言えば、もともとは「からっぽ」で何も無いのだけれども、あるという「みなし」によって表現されている言葉が「価値」⇒「カチ」なのだと思っている。
そう考えてゆくと、そもそも人間も含めた「生きとし生けるもの」に、「価値」=「カチ」があるという表現自体に、どうしても私は「?」になってしまう。
じゃぁ、一人の人間を表すときどう表現すればいいのか?との疑問も当然出てくる。私は、どうしても「存在有理」になってしまう。「存在」という言葉だけでは、ただ「在る」になってしまうから「存在有理」だ。「有理」はもともと中国の古い言葉だし、今の中国はいっぱい問題を抱えているが、やはり「有理」だと私は思う。「有理」だから、理(ことわり)があるという意味になる。ことわり(理)があるということは、ちょっとかみくだくと「存在しているだけでいいんだ」という意味になる。ひらたく言えば「在るだけでいい」ということだ。
私や、あなたは「かけがえのないいのちをもっていて、そのいのちとともに存在しているだけでいいんだよ」ということだ。
現代科学でも、地球での「生命(いのち)」の誕生は、宇宙的奇跡だ。人間の命や存在も含めて生命体そのものが宇宙的奇跡なのである。その、宇宙的奇跡を「カチ」として表現していいのだろうか?と私は感じてしまう。
私が、かつて神経症で苦しんでいた時、「生きているだけでいいんだよ」とか、もう亡くなった河島英五の唄にも「生きてりゃいいさ」がある。当時の私は、逆につらくなってしまった。というのは、やはり、現代で生きている以上は「稼がなくてはならない」し、「お金=貨幣」を得なくてはならないのも現実だ。
でも、私は、当時妻も息子たちもいた。だから、自分を「カチ無し」とは考えてもいなかった。お金を得るために稼がなくてはならないのも現実なのだけれども、それ以上に、お金以上の意味があった。私たち夫婦があってかけがえのない子供たちであり、子供たちからみればかけがえのない親なのだ。だから「カチ」などという薄っぺらい言葉では言い表せない。
かけがえのない「命や存在」は「カチ」という言葉では言いあらわしきれない。
先日、某放送局で「こもりびと」が放送された。その時の主人公も自分を「カチナシオ」と言っていた。
多分、「カチ」という言葉からは、自分自身の「いのち」や「存在」を限りなく肯定する響きは出てこないと思う。
私が、初めて、作った曲のなかでは「カチナシオ」さんを登場させ「なにからみてのカチなんだろう?どこからみてのカチなんだろう?」と表現した。正直「カチ」という言葉は使いたくなかったが、あえて使った。
「カチ」という言葉に「?」を持ってほしいと思う。そして、そういう言葉に惑わされないで欲しい。もともとの語源は、単なる「経済学」という限定された学の中でしか通用しない、私たちが「どう生きるか?」とか「存在する意味?」という根本的な疑問からかけ離れた「みなし」によってしか使えない、何の意味もない言葉なのだから・・・。
(ささ爺)
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