今の状況「コロナ不況」と言っていいのかもしれない

以下、述べることは私が息子たちとグループラインで述べたことをつなぎ整理したことです。加えたものは()にしました。もちろん、固有名詞は省きました。是非、一読いただけたらさいわいです。


俺ね、子供の頃(昭和30年代半ば)(1960年前半)では、1,000万円あれば一生食べていけるって親が言ってたんだ。

そのうち、その額がだんだん高くなっていってね。

いつしか、1億円貯金すれば、その利子で食べていけるって。

当時、為替レートが1ドル365円でね。つまり固定レートだったんだよ。

1973年のオイルショックで変動相場制になってしまって、それからずっとそうなんだけれども、現在の為替レートは、「円高ドル安」になっているよねー。

前は、1ドル=100円になった時もあったんだけれど、今はよくわからないけれども。

大体そこらへんで推移しているように感じる。

確かに、海外投資で儲けている人はいますよね。部屋や事務所にパソコン数台置いて、投資すべきところに投資して、その利ザヤで稼いでいる人は結構いるね。

ある友人にも勧められたんだけれども、俺は断ったんだ。

俺は「マネーゲーム」は好きでないし、土台先立つものが無いって。

俺のおふくろは保険が好きで、生命保険にたくさん入っていたようだよ。でも、加齢で更新できないってことで、結局辞めちゃったよ。

兄は、奥さんのすすめで結構保険に入っているようだけれども、確かに保険の積立での利ザヤではどうにもならないようだよ。

まっ、日本の場合なんだろうけれども、外資系の保険だと少しはましかなとは思っている。

でも、世界はアメリカ経済が基本になっていて、そこらが今後どうなってゆくのかは誰も解らないよね。経済人トランプは落選したし、バイデン下でどうなってゆくかは、今のところ誰も解っていない。

多分、K君の感覚のほうが「現代的」なのだろうけれど、まぁ、現段階での世界経済状況では、基軸貨幣がドルだけにはなっていかないような気がするよ。

日本の積立保険をやるのなら、外資系のほうが現段階では確かに有利だよね。

亡き妻が入っていたガン保険には当時は助かったのは確か。

それも、先立つものがあってのことだと思う。

多分ね、お金にも「温かいお金」と「冷たいお金」がるんだと私は思っている。

妻を育てた爺ちゃんは、当時給料なんて口座振り込みじゃないから現金なんだよね。

爺ちゃんは、毎日働いて給料が出ると、封を切らず、婆ちゃんにそのまま渡してた。里子婆ちゃんは、爺ちゃんに感謝して、その給料の範囲で家計をやりくりしていた。

妻は当然は女性だから、その婆ちゃんの姿勢を見てきた。

働いた汗によって得たお金って「温かい」ものなんだと思う。

一方、「マネーゲーム」で得たお金はやっぱり「冷たい」んだと思う。

自分自身、何も汗もかいていないのだから。実際、直接「汗を」かかなくても、働いて得たお金は尊いんだよ。そういうお金への姿勢ができていれば、人はそんなに間違いを犯すものじゃないってこと。

外資系の保険が有利なのは、現在は「円」の「信頼が高い」ってことだから、今後は「コロナ禍」でどうなるのかは、誰も解らないんだよ。

多分、大方の投資家も、推移を見守っているのだと思う。

前に述べた「バブル」投資の時の、逆の状況が今なんだと思う。

リスク覚悟で、少額でいいから、少しずつでもやってみたら。やってみない事にはわからないことってあるわけだから。やってみるってことで仕組みがわかるのだと思う。

別に私は反対もしない。でも、今の私には「先立つものが無い」です。

貴君たちが将来どうやって生計を立てていくようになるかは、今の私にはわからない、としか言いようもない。

団塊の世代が消滅すると、国内の事情が変わってくるから。

でも、消滅する前に「年金制度」は破滅するかもしれない。

2040年問題って知ってる?団塊の世代が、みんな介護状態になると今の日本の介護保険制度では太刀打ちできないんだよ。

私たちが消滅したころ、そのころ、貴君たちは老後が現実的な課題となるんだろうね。

多分、私も含めてなのだろうけれども、私もそうだったのだが、何か暗黙の「大前提」があったのだと思う。

私の場合は、当時の電電公社に入って、そこで働きとおせば、将来「共済年金」がはいって、老後の生活も「共済年金」で暮らして行けるという。

その間に、当然結婚もし、子供も生まれ、子供が育ちあがったころには、仕事も第一線から退き、係長で終わったか、管理職なったのかは別として、まぁ、それなりの年金で暮らして行ける「はず」という。

社会や時代に用意された「ベルトコンベア」みたいなものに乗っかって行けば「可もなく不可もない確実?な人生が送れるのだろう」、と。

現在の私は、実際に「年金暮らし」でいて、とりあえずは何とかなってはいるんだけれども、それは「経済的=お金」の話で、そこだけ取るとみんな羨ましいのかもしれないのだけれど、実際の財布事情は12月15日(この文章は12月11日時点)に次回の年金が入るまで3,500円程度でやらなければならないのが正直な話。まぁ、そういう生活をしていかなくてはならないのが現実。後3日で次回の年金が入るから、まず死ぬことはないのだが。

でも、みんなに聞いても「年金生活」というのはそういうものらしいから、特別私だけではないのだと思う。ペイペイでチャージして買い物しても、その時はいいのだけれども、結局翌月には口座から引かれるから、同じこと。死ぬことはないのだけれども、お金で何かを豊かにすることもできないのも現実。それが、年金生活だから。

こういえばいいのかなぁ。今までの社会保障も含めた、雇用も徐々に通用しなくなってきている。今は、(コロナで)仕事すらないのが現実。

繰り返さないが「大前提」が崩れてしまったんだよね。そして「コロナ禍」がそのことに拍車がかかってしまったんだよね。

いずれくるはずだった、いずれ崩れるだろう、いろんな暗黙の「大前提」が一気にきてしまったんだと思う。

近い将来こうなるから、この対策をとっておこうかとか、そういう準備をする時間も余裕もなく、とにかく、一気にきてしまった。

こうなると、もう「個人」や一家族ではどうにもならなくなっているのだと思う。

妙な言い方すると「人生の経営」すらできなくなってしまったのが今なんだと思う。

そしてこの先どうすればみんな生きていけるのか誰も解らないんだと思う。

はっきり言って「コロナ不況」なんだと思う。「不況」というのはこういう事なんだと思う。

そして、その最先端が「飲食業」だったり「観光業」だったり「派遣切り」になってしまった。TVやマスコミは「コロナ不況」とは言っていないが、私はそう捉えている。この50年の間には、オイルショック、バブルがはじけたショック、リーマンショックと大きいものはあったのだけれども、今回もそれにあたると思う。

1973年のオイルショックの時はトイレットペーパーがまったくなくなってしまい、私などは結構喫茶店で用を足したりしたんだけれど、片方では、高いトイレットペーパーを買い占めできる人もいたのだから、これまた不思議。

当時、親父の経営している電気工事会社はその不況のあおり受けて、「仕事はあるんだけれど、材料がない」と言ってた。結局親父は病になってしまって、酒にはしってしまった。

そんなことも含めて考えてみると、多分今回は長期戦が予想される。この状態が続いていくと「マネーゲーム」自体ができなくなってしまうような気がする。

というのは、コロナ問題はいわゆる「先進国」だけの問題ではなく、世界的な問題だから。

まだ、「円」は信用が高いから、外資系の保険会社が乗り込んでこれる要素があるが、その保険会社の自国や投資先がしっかりしていればいいのかもしれないが、それらも危うくなってきているのが現実。

家族の中に、貯蓄も含めたストックがある家は、しばらくは持つだろうが、いつまでもつかわからない。コロナがいつまで続くかわからないから、誰も「投資」なんて考えないのだと思う。

不況というのは、結局はかたよっていて、社会全部がどうしようも無くなればみんな考えてゆくんだけれども、今の段階ではやっぱり一部だけ。

例えば、国会議員なんて何も困っていないのが現実。自分が困っていないから、他人事だから、そこからくる政策も「現実感が薄い」のだと思う。ワクチンさえできれば何とか持ちこたえられるだろうという意識でとどまっている。

コロナっていうのは「都市問題」でもあるんだよね。単純に密になりやすいという意味ではなく、都市の経済のこれまでの在り方があるのだろうと思う。東京であれ、茨城であれ、そのほかの大都市であれ、仕事ができるうちはいいのだけれども、それがストップしてしまえば、ただの住宅集合体でしかないんだと思う。もちろん、住むには「消費」しなくてはならないから、そのためにもお金が必要になってくる。でも、住宅集合体には「商品」が入ってこないと、「消費」もできない。

昔のように買い出しにも今はいけないから、密にもなるから、やっぱり近場にしようってことになる。でも近場に生産地がないと、モノが入らなくなる。地方行政はそういう(巨大)消費地の都市の落とし穴なんて考えて政策をたてていないから、つまり地域づくりなんてしてこなかったから、地域に「生産→流通→消費」の基本ができていない。しかし、今気づいてももう遅いのだろうと思う。

だから、やはりここは発想の転換は早いほうがいい。前にも東京を脱出している人が多いとは言ったが、疎開も含めて、みんな単純な消費者であることに疑問を持ち始めている。「生産→流通→消費」が一体となった地域づくりに参加し始めている。まぁ、そういうことを始めてゆくと、まず、行政の問題意識のなさは感じてしまうのだろうけれども、今をどうするかが大事だと思う。

食べていくためには、食料という商品がなければならないのだが、そして、(その生産地)それが身近にあるのがいいのだが、そして、そのためにはお金が必要なのだが、それらの大前提が崩れてきてしまった、というしかない。

3.11の時は、とにかく「商品」がなかったのだからどうしようもない。ヨーカドーはやっていたのだけれども、とにかくレトルトのような保存食しかなかった。そして、水もなかった。ガソリンもなかった。あんときは確かに地域限定だったのだが、政治家や行政はそこから何も学ばなかったというしかない。とにかく被爆から逃げ回っていた。それが、このコロナで日本中、世界中になってしまった。

今回は「地域不況」ではなく、「コロナ不況」は産業不況から始まってしまった。「飲食業」「観光業」「イベント業」「派遣切り」だけでは結局とどまらないような気がする。

でも、重要事項を決定する方々達がまず「困っていない」のが現実。

そんな人たちに何かを期待しても失望のほうが大きいから、大抵の人は期待もしていない。残る道は「自己解決」(家族解決)になってしまうのだと思う。昔と違って、みんな貧乏でいて、支え合って助け合ってなんてないから、そして、地域の中でも格差があるから、どうしようもない。

誰も「コロナ」は予想してはいなかったのだけれども、過去から何も学んでこなかったのも現実。

私は「コロナ不況」には特効薬はもはやないと思っている。もう元には戻れないと。ワクチンで何とかなると思っている人は実におめでたい人か、困っていない人なんだと感じている。

ワクチンで元に戻れるとは、私は感じていない。みんな、いままでのようにこれからもいけると考えていない。みんな気づいちゃったんだよね。いろんなことを。感じない人には感じないのかもしれないが、私は過敏だから。

日本学術者会議の問題がクローズアップした時には流行った「俯瞰的(ふかんてき)」という、つまり高いところから見下ろす、という感性・感受性が国の政策のほとんどを決める官僚(特に若手官僚)の本当の姿だよ。地方行政はそれに右習えだよ。

もう、そんなものに何かを期待することはムダな行為なんだと、私は感じている。地べたをはいつくばって生きる力をどこからか探し出すしかないと思う。

もう終わってしまった朝ドラ「エール」の主人公小山裕一(古関裕而)が、自分の曲で戦争に駆り立ててしまったショックで戦後も曲をかけなくなった時、「長崎の鐘」の作詞者が「どん底に落ちよ」と古関裕而に言ったんです。そして、裕而はそれは「希望が大事」だとわかったんです。でも、自分の罪から裕而は苦しみ続けたんだけれども、その妻「音」が「もう自分を許してあげて!」といって裕而は立ち直ったんです。

まず、人間はどん底に落ちなければわからないことがある。そして、そこから生み出された力こそ本当の力になると思うんです(今の状況もどん底)。

私などは、神経症で散々苦しんだのだけれども、やっぱり一番助けてくれたのは長兄がだった。会社を引き継いだ兄には本当に私は助けられた。妻が亡くなるまでは・・・。同時に定年という形で仕事も無くなるのだけれども。(そして)会社は乗っ取られてしまうのだけれども。もう亡くなってしまったものには、はなむけの言葉しかないのだが・・・。

(ささ爺)

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