つくづく「欧米の精神医学」にもとずく「個」には?を感じる

つくづく「欧米の精神医学」にもとずく「個」には?を限界を感じているのが今の私だ。

ちょっと、あることを調べるために「自己愛パーソナリティ」という概念を検索してみた。しかし、そんな単語はなかった。あるのはWikipediaなどでも必ず「自己愛パーソナリティ障害」という概念に辿りつく。

ところで、「自己愛パーソナリティ障害」を、Wikipediaでの表現を借りると、「ありのままの自分を愛することができずに、自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならない、と思い込むパーソナリティ障害の一類型」と説明されている。

パーソナリティは「人格」だから、パーソナリティ障害は「人格障害」ということになるようだ。

私は、かつて、あるカウンセラーと「基本的人格」という言葉をめぐって論争したことがある。カウンセラーは○○○○症の人が一番「基本的人格」が弱い、と言っていた。私は、「基本的人格なるものは存在しない。それは妄想だ」と主張した。

いまだに、PCや書物で基本的人格を表している言葉と私は出合っていない。

たぶんだが、カントの「知・情・意」(人間にはそれらの高度なバランスが必要)という考え方からきているような気がするが、もしそうだとしても、人間には「身体」がある。その時々の「身体」の状態で「知・情・意」の反応状態も変わるので、ということは、変化・流動するので固定した実態はないということになる。

ところで、自己愛パーソナリティ障害で述べられている「ありのままの自分」とはいったいどういう自分なんだろう?と考えてみた。果たして「ありのままの自分」はあるのだろうか?と。

私は音楽が好きだから尾崎豊の曲も聞く。代表曲のひとつとして「僕が僕であるために」がある。結局尾崎豊は行き詰って、薬に走って亡くなってしまうのだけれども、私には、土台、独立した「個」は存在できるのだろうか?と確信をもって疑問符をたてたい。

「ありのままの自分」とは一体何だろう?この正体不明の言葉を、私は考えてみた。自分を説明するのに「俺は俺だ」と言ったところで、果たして説明になるだろうか?

アパートの中でひとり「俺は俺だ」と言ったところで何の意味も持たない。

自分を説明するには、必ず「他者」が必要になる。男性なら会社の仕事、女性なら家庭の仕事、そして、伴侶との関係、家族との関係、お子さんとの関係等々、つまり、自分は関わっているのだけれども、自分以外のすべてを私は「他者」と考えている。

私が「俺は俺」だといったところで、説明になるだろうか?そして、説明しようとすると、説明を受ける「他者」が必要になる。つまり「他者」なくしては説明のしようがない。そして、その「他者」に説明するとき、私の名、年齢、性別、居住区域、家族関係、若いころしてきた仕事等々を説明することによって「他者」が了解するのだろう。そう考えていくと、「私」は「私個人」としてあるのではなく、絶えず「他者」との関わり、どういうかかわりを持っているのかも含めて、を説明することによってはじめて自分も「成立」することがわかる。

「他者」からみても、私は「他者」であるしかない。

「自己」という概念は、「他者」という概念を通してしか「成立」できえないのだと思うようになってきた。

そうすると、やはり私は「対」という概念に行き着く。夫婦も一対だし、母子も一対として。私の生活の中でもたえず「他者」は存在する。その色々な「他者」と「対」という関係を通して説明するしか、自分を説明しきれないのだと思っている。

つまり、もともとの話に戻るが「ありのままの自分」とは何も説明できないことがわかる。その説明できないことを「大前提」として成立している「現代西欧医学」は何なんだ?となってしまう。

私は「個人」という概念が「近代ヨーロッパ」から出発していることにも気づく。以前にもブログで書いたが「個人」は、キリストという神に帰依する者のみに限定された概念にすぎない。

新型コロナウィルスで世界は「パンデパニック(私の造語=コロナの世界感染拡大によって人々がパニックに陥ってしまった状態)」に陥ってしまった。人々は「裸の個人」になってしまった。その混乱は、特にヨーロッパ・アメリカで顕著だ。そして、「裸の個人」になっているヨーロッパ人・アメリカ人に混乱が大きいのは、そうした「関係」に基づく「対」の概念がないことからきている、と私は感じてしまう。

それから、ヨーロッパ人・アメリカ人の混乱は「死生観」にもあるような気がする。キリスト教に帰依する人たちの「死生観」は、「生」は「饗宴」するものであり、「死」は「終焉」なのである。

欧米人の「死生観」は、自分は何もないところから始まって、「生」をうけ、「死」をもって終わる、という考え方だ。

もちろん現在「生」あるものはその「生」を全うするという人生態度は大事だし必要だと思う。だから、現在の「コロナ禍」でも、例えば安心して受けられる医療体制の充実は大事だと思う。助かる命は助けられるのなら助けるべきだと思う。ただ、ここでは、そのことには言及しない。誰もがわかっていることだから。

だけれど、どう考えても「死」を回避することは誰にもできない。

私は、若いころ「死の恐怖」におびえていた時がある。本当に人さまから見ても羨ましいくらいの「順風」の中で生活していた時、「人は死ぬ、いつか死ぬ、今のしあわせも長くは続かない」、と。すべてがむなしくて仕方がない時があった。結果、「神経症」に陥ってしまった。

ちょっと、神経症について触れたい。神経症はノイローゼとは違う。ノイローゼは葛藤状態だ。あちらを立てればこちらが立たず、ということによって陥る。だから誰もが陥るし一過性である。

ところが、神経症は、根底には死の恐怖がある。そこから、不安が発生する。この場合の「死の恐怖」は、生命体としての死の恐怖だけではない、かけがえのない家族の喪失という不安からくる恐怖感、地域や職場からはじき出されるのではないのかという「社会死」もある。そういう恐怖感が何らかのきっかけで、その時の自分が通用しなくなったっとき(適応しきれなくなった時)に、緊急避難的な自己防衛単純化によって「とらわれ」が発生する。今度は、「とらわれ」が目の上のたん瘤になる。気になって仕方がなくなる。だから「とらわれ」なのだ。「とらわれ」にがんじがらめになってゆくと、次第に社会的能力が落ちてくる。俗に言われる「退行」という状態になる。はじめはこの「とらわれ」さえなくなれば、と思うが、そう思えば思うほど結果自縄自縛に陥る。

それが神経症だ。だから、神経症は「ヨーロッパ的自己意識=近代的知性」が強い人が陥りやすいし「神経質」という独特の精神体系を持っている人にも発生しやすい(ちなみに私はどちらも抱えている)。そのメカニズムがわかるまで、私は30年余時間を費やした(神経症については別の機会で述べたい)。

日本人の「いずれお迎えが来る」との「死生観」は欧米人にはない。近代的知性は「生」のみがすべてなのだ。あとはナッシングなのである。

私には、2人の母がいる。1人はおふくろだが、もう1人は、亡き妻の母だ。しかし、その母達が、実に「死」をめぐって対象的なのだ。私のおふくろは近代的知性に満ち溢れている。一方妻の母は、日本の歴史的伝統的な精神を受け継いでる。

今年の正月の頃、おふくろは「死にたくない」と私に言ってきた。どうして?と私が尋ねると、「私が死んだら同居している兄たちが困るだろう」とそれらしき理由を言うのだが、どう聞いても決定的理由が見つからない。しかし、一方「妻の母」は、「いつお迎えが来るのだろう?」といって平然としているのだ。私は「多分、誰も解らない」と答えたが、少なくとも「死の恐怖」は感じられない。

この、「死」をめぐる対照的なものが、今回の「コロナ禍」での「欧米人」と「日本人」の違いとして表れているような気がする。

過日行われたアメリカの大統領選挙をTVで見る限り、トランプの演説の時に、ほどんとの人がマスクをしていない。しかし、日本人は「万が一自分がかかってしまったらそれはそれで仕方がないが、せめて家族や他者にはうつしたくない」として、できるだけのマスクも含め現在知っている限りのルールを守る。日本人ほど「他者」を大切にする民族はないと思うようになった。

わたしは、日本人の伝統的な「死生観」にもう一度立ち還ろうと思っている。

(ささ爺)

ささ爺の停留所

茨城地域の障害者と家族の為の相談室です。 何か悩みをお持ちですか? ご相談ください。