「障害者」わからない言葉②ー「あなたらしく」とは?

「もっとあなたらしく生きなさい」と言われると何故かつらくなる

「もっともっと私は私でありますように」とか「もっともっと君は君でありますように」とか言われると、「何を言われているのか?」とわからなくなってくるときがある。

最近の親御さんは、お子さんと接するときそのように言いていることが多いらしい。

その言葉は、そのお子さんの「存在」を認め、「自主性」を尊重している、とも感じられる。

ところが、例えばすでに亡くなった尾崎豊の「15の夜」の一節を紹介したい。「自分の存在がなんなのかさえわかずうちふるえている15の夜」。その前には「もう学校や家には帰りたくない」とも表現されている。

その言葉に、私はいまの若い人たちの「本当の気持ち」を感じるときがある。

誰もがかけがえのない命を持った存在であることは否定しない。しかし、「私の命はどういう存在」なんですか?という問いかけてもかえってはこない。

限りなく「私」を追求していくと、誰もわからなくなってしまう。「自分」はあるのだろうと思うのだが、でも「自分がわからない」、ということなのだ。

だから、「もっとあなたらしく生きなさい」と言われると、なにか「放り出さてしまったような」気持ちになってしまうのだろう。

親御さんは、上から目線の言い方をすれば、言われたお子さんは当然反発してしまう。

だけれども、「あなたらしく生きなさい」と言われると、言葉にはならないのだけれども「そういわれてみても・・・」と感じてしまう。

「われ思うゆえにわれあり」とデカルトが言った。学校では「近代的自我」の始まりとして学ぶのだが、でも「われあり」なのだけれども、その「われ」がわからない。確かに私も自身の中で「私」がいつしか芽生えた。だけれども、どういう「私」なのかはわからないでいた。

わたしが若かった時もそうなのだが、学校に通ったのは「決して勉強だけを求めて行った」わけではなかった。勉強は私にとっては「義務」でしかなかった。小学生の時はなんとなく「そうしなければならないんだ」と思っていたが、中学校の時は確実に「部活をするために」学校に通っていた。高校生の時もやはり「部活」だった。授業での先生の講義が念仏のようにいい響きでよく寝ていた。本当に心地よかった。

今の私は、もう高齢で、子供や孫とも同居していないから、現代の学校の状況はよくわからないのだが、学校は「授業」だけでなりたってはいないのはそんなに変わってはいないと思う。「部活」もあるし、「友人」もいる。遠い友人もいれば、本当に親しい友人もいる。先生もいる。授業にも、好きな科目もあるし、嫌いな科目もある。得意な科目もあるし、不得意な科目もある。先生だって自分の教えていることをもっと理解してほしくて様々な「工夫」がなされる。でも私は「学んでいる」というより「学ばせられている」という気持ちのほうが強かった。「学ぼうという」姿勢がないのだからどうしようもない。

みんな何かを求めて学校に行くのだけれども、学校の授業が終わると、まるで仕事が終わったかのように「解放」された気持ちになる。

私は、正直「授業」より、その合間での自由時間が楽しかった。トイレにもいったりするのだが、「授業」と「授業」の合間が楽しかった。そして放課後の「部活」が何と言っても楽しかった。私はバスケットボールをしていた。だから、チームメイトや顧問と「どんなチームに仕上がったら強くなれるのか」そして「どういう練習が自分たちを鍛えるのか、いいチームになるのか」をみんなで工夫してきたし、自分でも工夫した。

そうやって、「学校」でもそのなかで自分を見いだせると、そういう「居場所」があると「学校生活」も楽しくなる。中には「帰宅部」もいたのだが、私は「部活」に自分の居場所を見つけていたようだ。

当然、部活だから、先輩後輩の関係もあるし、チームメイトの関係もあるし、顧問との関係もある。先輩にはお世話になったし、顧問には大変お世話になったと、今でも感謝している。

自分の「居場所」があると、「自分を生かすことができる」そして「自分が生かせる」と、自分の「存在」が感じられたり、そこで「私」が感じられたりするのだろうと思う。

ということは「私」は独立したものではなく、「何かとの関わりの中」から感じるものなのかもしれない。

先日、あるTV番組で、「貴女は妻であり、子供の母である」と言われた女性が「私はその前に1人の人間なんです」と言い返した。そこに私は「存在」という意味がるような気がする。

そうとらえていくと、ただ「あなたはあなたらしく生きなさい」と言われると、「放り出されたような、とても残酷な」言葉になってしまうことがよくわかる。

最近、学校での「いじめ」によって、不幸にして命を絶ってしまうという痛ましいことが多い。もちろん「いじめ」はよくないと私も思っている。そして、学校に行ってもいじめられるから、結果として「登校拒否」になってしまい、そのまま「ひきこもり」のにもなってしまうことも多い。

だけれども、「いじめる側」がなぜ発生してしまうのか?と考えると、また別な視点がうまれてくるのかもしれない。いじめる側はいじめることによって成立している。もう少しかみくだいてみると、「いじめられる側」がいて「いじめる側」が成立する。いじめることを楽しんでいるだけといってもいいのかもしれない。だから、Aさんがいなくなれば、そのかわりとしてBさんでもいいのかもしれない。

正直、私も「いじめ」を受けたことがある。しかし私には部活があったから、その集団に何の未練もなかった。最終的には「いじめ」ることによって楽しんでいた人が、みんなに相手にされなくなってしまった。

「登校拒否」や「ひきこもり」は、人間の当然の自己防衛なのだろうと思う。

そして、「登校拒否」することで、または「ひきこもり」になることで、自己防衛をせざるを得なくなったお子さんを、医者にかからせたところで「・・・障害」というレッテルを貼られるだけで、何の解決にもならない、と私は思っている。その前に親御さんがお子さんとどう向き合ってきたのか?からの逃避にも感じられる。私は「完璧に育った大人」なのだが、その「お子さんだけに何か問題がある」という感じにも受けられる。子を産んだだけで親になるのではない。その子と向き合いながら育てて親になってゆく、との姿勢からの逃避にも感じられる。私は3人の息子の親でもあるが、まだ親としての「役割り」は終わっていないと思っている。でも、息子たちも世の中ではそれなりの立場にいることもあって、親目線(上から目線)では接していない。

「適応障害」という言葉があるが、それは適応すべき対象に何の問題もないのなら、という視点が必ずしも成立していないと考えることができるし「発達障害」との言葉もあるが、「じゃぁ、人間てそんなにバランスよく、トータルに、完璧に成長するものなんですか?」という疑問も出てしまう。

現代医学は、すべて「患者」としての「個人」にしか対処できない。そして、薬を出すのがDr.の宿命になる。

自分が生きる、家族や学校や地域社会や職場に「何の問題もなく完璧なもの」としての「大前提」は、いったいどこからやってきてしまったのだろうと、つくづく最近の私は疑問に思う。

現代の職場としての「生産秩序」は実にハードルが高い。以前は終身雇用だったし年功序列になっていた。そして、入社しても即戦力にはならないから、当然「訓練」もなされた。しかし、現代は、自分にある程度ものスキルがあることが、雇用の大前提になってしまった。しかし、1つの仕事をこなせるようになるのは、人間にはそれ相応の「蓄積」が必要になる。学校卒業して、採用されて即戦力なんて「ありえない」。私の経験上、「いっぱしの仕事人」になるのは、それ相応の経験と場数を積み重ねるという経過が必要になる。そして「仕事」が人を育てるという側面もある。しかし、誰でもできる単調な仕事は、逆にすぐ飽きる。飽きていながら仕事をしなくては生活できない、という「生産秩序」とは人間にどういう意味を持つのだろうか?と私は考えてしまう。

「ありえない」ことが大前提になってしまっていることが、現代の「生産秩序」になってしまったということもできる。

学校で選別されそこからはみ出せば「・・・障害」、職場でのハードルの高い毎日の仕事で病んでしまえば「・・・障害」、家族からもはみ出せば「・・・障害」。適応すべき「対象」にかなりの問題や課題があっても、そこには目を向けることはなく、すべて「個人」の問題にされながら、そして「あなたはあなたらしく生きなさい」と言われても、私たちはどこに「居場所」をみつければいいのだろうか?

そうしたことを最近の「コロナ禍」で見せつけられたような気がする。みんなの中で暗黙の「大前提」が一気に崩れてしまった。だけれども「どうしたらいいのか」は、私も含めて「誰にもわからない」でいる。

(ささ爺)

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