アメリカ大統領選挙から見る「民主主義の葛藤」

アメリカ大統領選挙から見る「民主主義」の葛藤

今回のアメリカの大統領選挙ほど「民主主義」とは何か?を考えさせられた選挙はない。

ちょっと、数字的にだけ事実を見てみよう。最終投票率は67%のようだ。バイデンが7,800万票獲得し、トランプが7,100万票獲得した(その後、12月2日ではトランプは7,393票、バイデンは8,026票だった。多分それが最終)。全体の有権者数からすると、本当に僅差なのだが、67%の投票率を考えると、34%獲得すれば「政治権力」が掌握できる。ということは、有権者の3人から4人の指示を受ければ、10人の支持を受けたとして、その構成員の10人を従わせることができる。もちろん、有権者や投票者ばかりが社会の構成員ではないのだから、その影響力の強さは実に大きい。これが「民主主義」という言葉の持つ響きだと思うと考えさせられる。

私などは、学校時代から「民主主義」とは「多数意見」に従うが「少数意見の尊重」も教えられた。しかし、社会に出て、実際の政治を見ると「多数派が少数派を従いさせるという現実のみ」が際立っていた。何かを決めるときも「多数派」が「少数派」を従わせるのである。

「民主主義」とは一体何なのか?どういう状態を「民主主義」と言うのか?今回のアメリカ大統領選挙によって本当に考えさせられた。

アメリカの場合は、直接的な選挙ではなく、選挙民を選ぶという「間接選挙」だから実にややっこしい。

日本も、総理大臣は、私たちは直接選べない。多数派を握った政党のトップが総理大臣になる。現在は、与党は自民党だから、その総裁である「菅」が総理大臣になっている。安倍が下りた時に、全党員で選挙が行われるのかと思ったのだが、それもなされず、ほとんど議員投票で選ばれた。後になって、何故議員投票にしたのかがうっすらわかった。全党員選挙をすれば「石破」が総裁になったのかもしれない。つまり、安倍は辞めるときには、すでにシナリオができていたと推測することができる。安倍路線を踏襲するのは「菅」なので、「菅」を自民党総裁にさせることが、全体のコンセンサス(合意)としてできあがっていた。何故「石破」ではまずいのかは私にはいまだにわかっていない。ただ、安倍が下りたのははっきりしてきた。その代表例が「桜を見る会」での公職選挙法等への違反だ。もしかすると(誰も解らないが)、安倍は議員失職するかもしれない。捨て石だった「河合夫妻」の議員失職からも影響するのではないかとも感じられる。

ちょっと脱線してしまった。今回のアメリカの大統領選挙は選挙結果を「不正」があったとして認めないトランプの滑稽な言動にも表れた。もちろん、トランプも必死だ。大統領職を失うと、トランプを待ち受けているのは、「破産」「離婚」「全財産の没収」「国外逃亡」などあるらしい。いまだに敗北を認めないのは、「時間稼ぎ」をしているのではないのか?とも考えられる。水面下で何かを準備しているのでは?と。それはまだわからない。

世界は、「アメリカ的世界秩序」によって成り立っている。その根幹であるアメリカでの「民主主義」による結果を認めない現職大統領の姿が、私には「民主主義」のとはなにか?を考えさせられる。

でも、この「コロナ禍」で何故トランプ支持が減少しないのだろうか?との疑問も出てくる。相変わらずトランプを熱狂的に支持する人が多い。何故なのだろうか?

多分としか言えないが、「明日のパンより今日の命」を考える人と、とりあえずは、「今日は持つから明日の命」というギリギリの状態が、選挙の「僅差」にあらわれたのだろうと思うしかない。もっと圧縮させた考え方をすると、自分や家族を「今」として考えるのか、雇用などに象徴される「明日」にゆだねることなのかかもしれない。

この「コロナ禍」で世界中のみんなが苦しんでいる。そうした時、欧米の「個人」とした生き方より、日本的な「支え合う・助け合う」「人さまにかからせたくないから、今は身を縮る」との強い意識のほうが、新しい自分たちのこれからがあるような気もする。

ところで、私たちの日常生活は「民主主義」という理念によって成立しているのだろうか?決してそうではないだろう。私は現在1人生活だから、まず「民主主義」とは程遠い生活だ。

多分、ほとんどの人は、日常生活の中、絶えず「民主主義」という理念で仕事をしたり、家庭を担ったり、社会行動をしたりはしていないだろう。私たちの生活でのほとんどが「不文律」によって成立している「常識」といわれるものへの合意を経て、行動は形成されている。時々法律なるものに触れるのは交通違反の時ぐらいなものだ。

「民主主義とは」どういう制度で、どういう状態をいうのか、本当に考えさせられた。

ところが一方、私たちはそれ以上の制度も解らないのも事実だ。

家庭や職場では何とかなるのかもしれないが、大企業、大きな自治体、地域、お国となると先ず分らなくなる。

でも、私たちの普段の生活は、そこまで考えなくても、結構やりきれている。

どうしたら、私たちはこの先生きていけるのか、どう生きたらいいのか、誰も解らない、ということがわかってきたのが現在の私だ。

多分、これからは、今までを「批判」しても何も出てこないのだろうと思う。過去から多少学びながらもこれからを生きるしかない。

この夏、畑を多少行ったが、そこでの指導員が、畑の境界の雑草はお互いに「折り合い」をつけて欲しいといわれた。何ですか?「折り合い」って、と私は聞いた。つまり、隣の畑の所有者と話し合って納得して境界の雑草処理をしてほしいというのだ。大体、古来、日本での村社会での運営は「折り合い」で成立していたようだ。つまり、そこでの決定権は私たちにあることになる。その「折り合い」という昔からのやり方の中に、これからの私たちの地域でのありようが見えてくるのかもしれないとも感じた。

(ささ爺)

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