「障害者」わからない言葉①ー資格と現場

私は国家資格をいくつか持っている。まず普通運転免許証だ。次に第二種電気工事士、第一種電気工事士、1級電気工事施工管理技士、2級土木施工管理技士だ。その他、仕事をしてゆくのに必要なものがいくつかあるある。

国家資格を持っているってことを人からうらやましがられることがある。しかし、私の経験からすると「そんなもの」と感じている。現場ができないと何の意味もないと思ってるからだ。現場は、資格ではこなせない。やはり、現場をこなせるのは場数・経験に基づく「腕」だと思うからだ。

「国家資格」とは何か?をしばらく考えてみた。「試験」というものを通過して合格しないと与えられない。しかし、経験上「試験」にはいくつかのあいまいさがある。まず、現場ができなくてもさほど問題にならない。だから「試験」対策だけの学習をすれば「合格」することができる。

ちなみに、私が主として経験した配電工事には「国家資格」は必要ない。「現場をこなせる腕を持つこと」がすべてである。

「資格」は国によって「認定」される。誰もが経験あるだろうが「受験」というものを通過しないと、学校に入れない。自分をそこで「勉強したい或いは鍛えたい」と思っても、「受験」というものを通過し「合格」しなければその学校で学ぶことも生活することもできない。アメリカなどは、大学にはいりたければ割かし簡単に入学することができ、そして真剣に学ぶことをして、卒業できてはじめて、その人のカチが認められる。しかし、日本では「入学試験に合格」さえすればよい。だから、受験競争が過熱する。本人も親たちも必死になる。

つまり、「資格」は「国」によって「権威」づけられる、ということになる。その人の現場能力をこなせる「腕」ではなく「試験」に合格することが、「国」によって「権威」づけられ、社会で評価されることになる。

現代社会の「生産秩序」もそうなっている。「国」が認めた「生産秩序」に従って、適応可能な人だけが「働ける」ということになる。しかし、国が認めた「生産秩序」にはどうしても、適応できない一群が社会の中では存在してしまう。それが「医学」というものとつながってしまうと「障害者」という概念が作られてしまう。

関東地方は「障害者就労支援A型事業所」、や「B型事業所」が非常に多い。特に「A型事業所」は、ハローワークをとおしてその事業所と正式な「雇用関係」が結ばれるので最低賃金が保障される。しかし、その作業内容は極めて劣悪である。「内職」と呼ばれる、単純・単調作業に耐えられることが要求される。当然その作業に耐えられない人たちも出てくる。

私が昔ある会社で料金係をしていた時に、いわゆる障害者枠で入社した人が配属された。その人は、足が不自由であった。聞くところによると子供の頃に「脳性小児マヒ」でそうなったといっていた。仕事も間違えやすい傾向があった。私は忙しかったこともあり、その人の面倒はSさんに任していた。Sさんは彼の面倒をよく見ていた。あえて言うと、料金係という「生産秩序」に適応できなければその人は、社会の中では生きてはいけなかった。

医者も国家資格だ。その資格を持っていなければ「医者」にはなれない。

医者特に「精神科医」や「心療内科医」は、現代医学の定説に従って、「このクライアント(患者)はどのカテゴリーに入るか」を分類する。

特に精神科医はその分類作業がすざましい。様々な分類がなされる。最近は横文字でも分類されるので訳が分からなくなる。

そして、現代での「生産秩序」や「社会適応」ができない人たちを、あるカテゴリーに分類し「障害者」としてのレッテルを貼ることになるようだ。

例えば「生産秩序」を車の運転にたとえてみよう。運転ができる人は当然わかっているが、交通ルールに従って、車の流れに従って、周囲の状況を認識し、判断しながら運転をする。信号が赤になれば当然ストップする。横断歩道で人が立っていれば車を止め、歩行者に譲る。運転速度も、大体は全体の流れに従って運転する。それができない人には「運転免許証」は付与されない。

最近は、義務教育でもいろいろ分類がなされる。学校も1つの「秩序」だ。当然その「秩序」には適応しきれない子供さんも出てくる。そうすると、何か「その子」にのみ問題があるという考え方がなされる。決して「学校」に問題が隠されているとは誰も思わない。それが現代医学と結びつくと、「・・・障害」としてみなされてしまう。登校拒否も「学校」にも問題があるとは考えられないで、その子供さんのみに問題があるとなさてしまう。

最近見たTVで、2度にわたって「ひきこもり」の番組が放送された。私個人的には、その番組からは「個人の問題」として取り扱われているように感じる。けっして、「社会の問題」としては放送されていない。だからかたよっていると感じた。適応すべき「地域社会」の問題が抜け、適応できない「個人」のみが強調されているように感じた。もちろん「家族」という観点でのみ考えるともっと複雑になる。

私はもう年で老眼鏡を離せないでいる。しかも67才なので「高齢者」として社会的に扱われる。そして、わたしも加齢を認めている。もう現代社会や国が認める「生産秩序」に適応することは無理だろうと理解される。認知症も「歳だから」として了解されてしまう。

しかし、「障害」という観点だけでモノを考えてみると「近眼・乱視」も「障害」だし、「老眼」も「障害」だ。しかし、それらは「メガネ・コンタクト」などをつけることによって、現代の「生産秩序」や「学校秩序」に耐えうることができる。だから「障害者」の概念規定には入ってこない。

私個人は、メガネをつくるときにも「保険適用をすべき」と思っているがそうにはなってはいかない。

私は度重なる中耳炎によって左耳が難聴になっているが、「年金を最高額支給しているので」ということで障害者とは扱われない。

私は「内科」の薬を飲んでいる。でも「高齢者」のカテゴリーに入ってしまう。

つまり、「障害者」という規定は、本当のハンディからされるのではなく、現代社会の「生産秩序」に適応できるかできないのかによって判断される、という結果を招く。

ミッシェル・フーコーというフランスの哲学者がいた。哲学が本業なのだが、大学を卒業後、どういう訳か精神病院に就職する。その報告の中での著書として「精神疾患と心理学」がある。「彼はその中で、精神病院に勤めたが、私はいまだに「精神疾患者」といわれる人を見たことがない」といっている。

そうすると「障害者」や「精神疾患」という概念規定はどこから成立するのか?おぼろげにわかってくるのだと思う。

すべて「個人」ということから出発してしまっているのがよくわかる。

(ささ爺)

ささ爺の停留所

茨城地域の障害者と家族の為の相談室です。 何か悩みをお持ちですか? ご相談ください。