「コロナ禍」差別は何故生まれるのか(3)

「個人」としての自己意識の形成が未熟な「子供たち」は何故学校で「差別」してしまうのか?という問題に触れたい。

私は「子供は大人のすることを模倣して」育ってゆく、という大前提に立つ。

例えば、「赤ちゃんが歩く」ということは、親にとっては特に感動的瞬間なのであるが、子供にとっては、親が歩くからそれを模倣して歩くようになる、というのが実際だ。

つまり、子供たちが主として生活している、幼稚園や保育園や学校は、大人たちの社会が作っている価値観や行動を模倣することによって成立している。

つまり、大人たちが社会の中で日常行っていることを、子供たちは、その場で実践してしまう。

かつて、東日本大震災(3.11)により、原発が瓦解し、多量の放射線を浴びた人々が避難を余儀なくされた。そうすると、大人たちが放射能を帯びた福島県の人々を差別し排除した。もちろん、放射能物質であるヨウ素やセシウムが、それらを浴びていない人たちへどう影響するのか誰も解らないので、不安感は惹起した。そうして、自分の安全のために避難を余儀なくされた人々を差別し排除するしかなかったのだろう。しかし、子供たちはその現象だけを捉えて模倣し、「汚い」「来るな」「危ない」として反応してしまった。

子供である以上、社会認識はきわめて未熟である。だけれども、やはり身近な大人たちをも模倣する。大人たちが汚染されてしまった人々を排除すれば、子供たちもそれを模倣する。そして、子供であるがゆえにその行動はストレートにならざるを得ない。靴箱から、靴を隠したりして「いじめ」が行われた。

そうしたことは、今回の「コロナ禍」でも現れている。よく、「あの親ありてその子あり」と表現するが、それは親の責任以上に、マスコミ報道も含めたおとな社会の責任なのだと私は思っている。

小さいころから、つまり子供の頃から「差別」することが当然の意識として育ってしまうと、結局は大人になってもそういう意識に何の疑問も抱くことなく、ひとは「差別」してしまう。そして、社会は連続性があるので、子供の頃からそう育つと「差別」は常態化してしまう。

だから、今回の「コロナ禍」においての差別も、子供の頃からそうした意識が醸成されてしまって育ってしまった大人たちの病理現象なのだと私は思っている。
(ささ爺)

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