「コロナ禍」差別は何故生まれるのか(2)
最近になって、テレビでも、コロナに感染したからって言っても「差別」はよくない、陰性化しても、職場復帰の時に「差別」してはよくない、と言うようになってきた。
しかしいっこうに「差別」はなくならないようである。それは、人間の「防衛本能」だけではないと思う。まぁ、大きく言えばそういうことなのだろうが、現在は人々の意識は、「自分を脅かすもの、自分を不都合にさせるもの」を差別して、排除しようという意識が強く働いてしまうようだ。コロナにかからないようにするためではなく、差別排除することが、人々の主要な関心事になってしまった。
何故、そういう意識が強く働くのだろうか?
私は、(1)で、「人は自分が正しいと思っていないと生きてゆけない」という根底的な意識がある、と述べた。
私は、そこに人々が陥ってしまう、ある「陥穽(かんせい=落とし穴というような意味)があると思っている。それは「個人」で生きているという「錯覚」から発生しているように感じる。自分は「個人として成立している」という錯覚だ。
誰もが、「人間は一人では生きてはゆけない」という意識に反論する人はいないだろう。しかし、一方で「個人で成立しているという意識」があるという、強い意識も働いているのだと思う。
人の命は、垂直的には、ご先祖様があって現在の自分が成立している。そして子孫がそれを引きついてゆく。水平的には、その時代時代の社会があって成立している。そのことには、だれも異論はない。しかし、現代の人間は、自分の「生」が、何もないところから始まり、「死」をもって終焉する、という「孤独」とも向き合わざるを得ない。
そういう後者の認識のみが「個人」という意識を形成させてしまう。その意識は、人間を「根底的な不安」に陥れてしまう。その「個人としての根底的な不安」が強く働き、自分のたつ社会的な存在基盤を脅かす強い意識が働けば、他者を「差別」することによって、排除しようとする意識が働くのだと私は思うのである。
だから、いくら「差別」はよくないといくらマスコミがいっても、現代社会の中では、「差別」することで排除してゆくという意識は、当然の帰結なのだと思う。
(ささ爺)
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