「コロナ禍」差別は何故生まれるのか(1)

「コロナ禍」差別は何故生まれるのか(1)

私は、以前に日本の3大差別として、①在日朝鮮人差別、②同和問題、③障害者差別があると述べたことがある。

今日は、表記のことについて触れたい。まだ、思索中なので、不完全な部分もあり、そして、HPという限界性もあり短文にならざるを得ず、そして、ちょっと抽象的な思索も必要になるので、多少理解でききれない要素もあるの思うのだが許してほしい。

コロナ禍においては、先に5月ごろだったかマスコミの扇動力を指摘した。あの時期は、まだコロナに対する人々の理解不足もあり、結果として「コロナ感染⇒重症化⇒死」という三段論法が確立してしまった。

しかし、それから一定の時間も経過し、コロナの傾向も解ってきた。そして、コロナに感染しても、重症化しなければ死を向かえることはない。重症化リスクは高齢者、持病もちに多いなどがあげられるようになった。だから、緊急非常事態宣言解除後は、特に若者たちはこぞって、街特に夜の街に繰り出すようになった。

コロナの問題はいろいろあるが、今は何故コロナにかかると不当と思われる差別が発生してしまうのか?という事に絞って考えてみたい。

人間には(多分動物にも)「死」を恐れるという根底がある。それは、生命体としての当然のものなのだろう。特に人間には、①生命体としての根底的な死への恐怖、②自分以外の家族などの死への恐怖、③社会的存在としての死への恐怖(水平的な)、④社会的立場(垂直的な)死への恐怖がある。当然それらの死への恐怖から「自分や家族を守りたい」という防衛本能がある、と思う。

それは、①自分は死にたくない、②大事な家族を死なしてはならない、③地域から死者が出ると当然自分たちの家族も危ないのでそこから逃れたい、④社会的身分(企業的立場)が危うくなると不都合が生じるのでそこから逃れたい、というような要素があるのだと思う。

それらが、複雑に絡み合って「差別」が生まれてしまう。

人間は、そして大人たちは自分は生命体であるという自覚がある。そして、社会的な存在であるということも自覚している。

最近私は、つくずく「人は自分が間違った精神性をもって生きてはいない」存在なのだと思ってきた。つまり「自分は正しい」と思っていないと生きてはいけない存在なのだと、思うようになってきた。

そして、家族や社会が複雑になれば「多様な」存在として生きてゆくことが可能になる。そこに「平等感」よりは「対等感」が成立してくる。

ところが、今年の2月から始まった「コロナ禍」騒動は、それらの人間の自己意識を脅かしてしまった。更に4月5月という国家統制にも似た「自粛」によって、更には「自粛」状態に一元的画一的な三段論法がマスコミから情報を受けることによって、人々の意識までをも一元化画一化されてしまった。

ところが、緊急事態宣言解除後、そしてコロナの一定的な傾向が分かってくると、特に都市部では、若者を中心に街に出向くようになった。多少の安心感を持って。

しかし、東北地方は反応は違ってきた。コロナにかかるということは「社会死」になってしまった。昔の言葉で言うと「村八分」になってしまう。私は、当初は、東北地方は、良くも悪くも「共同体性」が地域社会の根底にあるからかなぁ、と当初は理解していたが、最近になってそうではないのかもしれない、と思うようになった。

それは、自分がかかってもいいのだが「他者にはうつしてはならない」という日本人独特の意識強くが働いていることからも解る。

それでは何故、コロナにかかると「差別」が生じるのだろうか。わたしはしばらくは解らなかった。それは単純に「精神の貧困」ということだけでは済まされない何かがあると感じてきた。

(ささ爺)

ささ爺の停留所

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