「新型コロナウィルス」と「生」と「死」

私には母が2人いる。1人は、生みの親でもあり育ての親でもある「おふくろ」だ。もう1人は、私が結婚した時、養子縁組にしたから、亡き妻の母である。法的には「養母」であるが、私にとっては、やはり、人生の先輩である。「婆さん」と呼ぶ。

「おふくろ」は、97歳、「婆さん」は今年の秋に93歳になる。どちらも高齢だが、いまだ元気である。多少の違いは、「おふくろ」は、兄たちと同居しているが、「婆さん」は、足が不自由になってしまい「老人ホーム」という「施設」暮らしである。


しかし、この2人は実に「生」と「死」に対して、実に対照的なのである。

去年の晩秋、たまたま、寄ったおふくろの家。唐突に「おふくろ」は私に「死にたくない」と言ってきた。私は、多少驚いたが、とりあえず「何故」?と聞いた。次に、「もう97なのだから、間もなくなんだよ、言いたくないけど、、、」とわたしは言った。

そうすると、おふくろはいま、自分が生きている意味を、意味づけながら私に説明してきた。わたしは、「生」も「死」も「人智」を超えたものなのだから、「どうして意味づけしなければならないのか?」と問うてみた。おふくろには、「死生観」がないのかもとも言った。「おふくろ」は色々、生きていることの説明をするのだが、やはり「死にたくない」で話は終わってしまう。

まるで「死への恐怖」におののいているようだった。


一方、「婆さん」は、度々訪れる私に、「そろそろお迎えが来るのかなぁ」とか、養護施設に入っている、亡くなった私の妻の妹の身を案じながらも「どちらが早いかだな」とか言ってくる。当然私は、戸惑う。ただ、後になって理解できたのだが、今の「婆さん」には、「死」はタブーでないってことなんだなぁ、と言ことだった。


「死にたくない」といって、「死」に対して恐れおののく「おふくろ」。一方、「いずれお迎えが来る」といって、自身に「諒解」している「婆さん」。


わたしは、しばらく悩んだ。そして、もしかすると、現代というのは、「生」の「饗宴」と「死」は「終焉」という、現代の、直線的な1つの価値観に辿りついた。


しかし、私は絶対的平和主義者である。絶対に、人の「不慮の死」は認めないし、どんな努力を払っても、「不慮の死」という状況を作ってはならないと思っている。


しかし「生」あるものは、いずれ「滅する」。この理(ことわり)は、もしかすると、現代の人にとっては、実に残酷なとらえ方なのかもしれない。


この残酷さが、今の、コロナパニックの一因かもしれないと感じてきている。


今は、出口が見つからない状況だが、「人類」は必ず新しいこたえを出してくると、私は信じている。

        (もしかすると、今日のテーマには、「続き」がありそう、、、、です)

                                  (ささ爺)


ささ爺の停留所

茨城地域の障害者と家族の為の相談室です。 何か悩みをお持ちですか? ご相談ください。