「コロナ」への外出自粛は「対処療法」だが
医療に、「対処療法」があり、「根治療法」があると同時に、経済にも、それらがあると思う。
私の妻は、残念ながらガンで亡くなった。あまり縁起のいい話ではないが今は許してほしい。
例えば、「ガン」に対し、放射線治療や、抗がん剤治療はどちらかというと対処療法に近い。しかし、現代医学では、やはり手術摘出が一番効果的なようである。それは、どちらかというと「根治療法」に近い。
現代医学をもってしても、まだ「ガン発症のメカニズム」はわかってはいない。もしかすると、ガンも現代病と言ってもいいからである。「現代医学」の限界も私は感じている。しかし、いまは、そのことを言いたいわけではない。
しかし、「根治療法」が見つからない時、「対処療法」しかできない時でも、徹底した「対処療法」が必要であるとも考える。
今回の「コロナ」では、マスコミをとおして、「外出の自粛」が盛んに言われている。もちろん、クラスターの発生の傾向は「密閉」「密集」「密接」の関係の中から生じているので、当然の判断である。
感染経由をとりあえず「ふさぐ」わけである。
わたしは、そのことをいささかも否定はしない。
しかし、それで「根治」または「対処しきれるのか」である。
今、肝要なのは、「コロナ」の感染経由を断つということも必要であろう。だが、それだけで「人々の生活」が「守れるか」ということも同時にあると思う。
「健康」つまり「いのち」は、もちろん大切である。しかし、今回の場合、直接的には「感染経由」の閉鎖もさることながら、長期的には、生活が「成立」しなければ、やはり「生活」=「いのち」の危機にさらされる。
SNSやインターネットから、今回の国の「宣言」や東京都の「措置」にたいし、国や行政への無力感や失望を感じた人は多かった。
つまり、それらの判断や決断に「安心」は感じられなかったのである。
「自粛」を唱えながらも「保障」は無しでは、行政は人々によって「いのち」を、長期的には「無視」にちかい状況に追い込んでしまう危険が感じられる。
人は、考え方では生きてはいけない。働き、何らかの収入を得て生活している。
こういう時こそ、経済的にはかつてケインズが提唱した「有効需要政策」に学ぶことが必要と思われる。
つまり、多少のインフレを招いても、「ばらまき」といわれても、今は経済の維持・活性化に取り組んでゆくべきでもあると思う。
何も、「コロナ」を無視して、みんなで街に出かけようというのではない。しかし、一方では「安心」感はどうしたら満たされるかであろう。
私たちの「いのち」は「不安」なのである。1つは「コロナ」に対してであり、もう1つは「生活」に対してである。その「不安」は、自分自身だけではない。家族に対してもむけられる。
その不安に、今回の「宣言」や「措置」は答えているだろうか。
マスコミの報道を聞いていると、「政府は、有識者の意見を聞きながら」という「解説」がつけられてる。それは、2つの意味を現わしていると私は感じる。1つは、政府自身は判断能力があまりないにということ。2つは、今回の「宣言」「措置」に有識者たちは今後とも「生活」=「いのち」には困らないということの証左でもある。
今回の、「コロナ」の流行と政府・行政の「宣言」「措置」では、必ず死活問題になる経営者・労働者・生活者が出てくる。
医療崩壊はもちろん困る。しかし、現代医療自体に「コロナ」を終息させる力があるのかも、よく見据えたほうが良いのかもしれない。「パニック心理」は、結局、「新型コロナウィルス」の正体が現代医学による科学的な解明ができないことからきているのだろうと思う。
私は、東日本大震災(3.11)の時の原子力発電所の瓦解の時、いち早い情報を得ることができる立場にあり、いち早く現場・職場を放棄し、逃げ回った輩(やから)やその家族を見ている。そして、そういう人たちは、やはり、「自分だけは」と生きている人たちであった。
いま、自分たちだけは成り立っても、今後とも、「成立」し続けられるのか、考えなければならない時なのだろう。
自ら手を挙げて「政治を私に」と言って、誇らしげな「先生」になっている人から学ぶのか、東日本大震災(3.11)の時の、人々の「自助力」から学ぶのか!
(ささ爺)
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