「障害者」わからない言葉④-「恐怖症」とは

日本人の「対人恐怖(葛藤)」は「社会死」への反応が強い

よく、神経症のひとつとして「社交恐怖(不安)症」とか「公衆恐怖(不安)症」とかで説明されているときがある。場合によっては、SADとして「社交不安障害」にまで高め?られてしまうこともある。

私は、若いころは人前で演説するのが得意だった。何か、本で読んだことをつなぎあわせて、1つの論理にまで高めて、「カッコイイ」演説者として自分を演じていた。

しかし、「神経症」に陥ってからは、まったく自信がつかず、人前で話すのが苦痛になってしまった。亡き妻の「葬儀」のあいさつでも完全に緊張してしまい、足がガタガタ震え、とにかくあいさつの中で、言い述べたいことを言い切れないで、挨拶を終わらせてしまった。いまでも、悔やんでいる。でも、いまさら悔やんでもどうにもならない。結果としてのどうにもならないことにこだわっても仕方がないから、「その時はそうだった」として自分に言い聞かせている。でも、いまでも心底納得しきれてはいない。その後悔の念が更に自分を苦しめる。多分、大抵の「神経症」と言われる人は、そういう心理の「負の連鎖」で苦しむのだと思う。

ところでそういう心理は一般的には「対人恐怖(葛藤)」から始まっている場合が多い。自分が人(他者)に認められないのではという心理が強く働いているようだ。

日本人に多い「対人恐怖(葛藤)」について考えてみた。

多分、人間(特に日本人)には、自己防衛の本能がありそして自分の存在を他者に受け入れられて認めて欲しいという強い欲求が働いているのだと思う。そして、そのことには誰も否定しないだろう。

そして、「対人恐怖(葛藤)」の根底には「死の恐怖」があるとしてとらえるとわかりやすい。

・生命体としての「死の恐怖」、

・かけがえのない家族を失ってはならないと願う「死の恐怖」、

・隣近所などの隣人や地域社会などから自分や家族が否定され排除されてはならないと思う「社会死の恐怖」、

・職場や会社など自分が所属する単位から自分が否定され排除されてはならないと思う「社会死の恐怖」と整理することができると思う。

そう考えると、誰もが持つ当然の心理だと言えるし、その心理が強く働くからこそ、「身の安全」には気をつけたり、職場の中での円滑な人間関係を望むし、そのために労力も惜しまない人も出てくる。

そして、特に日本人に強く働く心理は「社会死」をどう回避するのか、だと思う。

私などは、現在1人生活で年金生活者でもあるから、ステイホームあたりからアパートにいることが多い。だから、あまり人とは接することは少ないのだが、やはり一番気になるのは「生命体としての死の恐怖」を感じることだ。でも、一方では加齢も認めているので「その時はその時」として深くは考えないことにしている。考えてもどうにもならないことは、私はあまり考えないようにしている。

これも多分だが「差別」する心理の根底には、自分の存在や社会生活上、自分に不都合が生じてしまうことからそういう意識に至っている場合が多い、とも感じている。例えば「コロナ禍」差別は、もし自分がかかっては自分の生命体・社会性が脅かされる。結果、自分が不都合になってしまうから、その人を排除することで「自己防衛」をするから、「コロナ禍」差別は発生してしまうともいえる。一番単純で手っ取り早い方法なのだが、それでは何も解決はしないのだが、でも人はそうしてしまう。とりあえず、目の前からいなくなってくれればそれで安心ということなのだろう。でも、例えば「コロナ」に関しては、そういう行為は何も解決はしない。そのことも、大抵は解っていても人はそうしてしまう(ここのところは別項で言い述べたい)。

ところが一方、「社会死」にことさら恐れる一群もいる。それらの人は「対人恐怖」者として「神経症者」になってしまうケースが多い。その心理の根底には、大きく言えば社会に適応したいと強く願うのだが、その欲求の強さゆえに、逆に完璧な自分や「他者」を求めてしまう。結果常に「適応不安」を強く感じてしまう。更には「適応不安」を強く感じた自分を異常視してしまう。そして、自分と他者(社会もふくめた)への完全同化を求めてしまう。だから、自分と他者(あるいは社会)にある隙間を何かの形で補強しなければならないとの思いが生じる。そういう心理が強く働けば、「常に相手の思惑ばかりが気になって仕方がなくなる人」も出てくる。そして、「社交恐怖」になってしまう人もいる。

そして、今度はそういう自分に「異常感」も感じてしまう人も出てくる。

前述の3番目、4番目は、明治以降、どんどん社会も複雑になってきて多様化も進んでいるので、そして、人間の意識も同時に多様化もしてきていて、中々「本当の自分」が見えなくなってもいる。

以前に、自己愛パーソナリティを調べようとしたら「障害」にまで高められていたことを指摘した。ここのところはとても難しいのだが、以前に述べた「ありのままの自分」がやはりわからない、ということからもきているのかもしれない。先に「本当の自分」という言葉を使ったが、実はそれも怪しい言葉だ。よく「私の中には私の知らないもう1人の私がいる」と言われるが、「知らない」のだからどうしようもない。「知らない自分」を信じろとかあるのだとか言われても、「知らない」かぎりなんともしようがない。私はここで「「等身(心)大」の自分を受け入れる勇気を持つことから出発するしかない」ことを強調したい。

ただ、自分を見つめてみるだけではなく、他者との関わりによって自分を知ることはできるし、「行動」をとおして、「こういう自分もあったんだ」と知ることはできる。行動は、自分以外の「外界」に働きかけることだから、大きく言えばやはり「他者」との関わりで知ることができる。多分、私も含めて、自分を知ることができているのは、単に自分を見つめるだけよりも、「他者」を通してのことほうが圧倒的に多いのだと思う。そして「仕事」(ここでは会社の仕事だけを指してはいない)にもそういう側面があると私は感じている。

だから、「他者」との関わりがとても重要になる。そして、重要だから人はこだわってしまう。そんなに重要でなければ、人はこだわらない。時にはそのこだわりが「とらわれ」にまで至ってしまう人もいる(私は、その「とらわれ」を「緊急避難的な自己防衛単純化」といっている)。そして、今度は「とらわれ」にとらわれて自縄自縛になってしまう。どんどん苦しくなってゆく。そして、現代医学は「とらわれ」を「強迫性障害」にまで高め?てしまう。

だから「神経症」に陥る人は、先に述べた4つの「死の恐怖」に敏感な人が多い。だけれども、じゃぁ、いわゆる「普通人」と呼ばれている人とどこが違うのか?その境界線はどこにあるのか?と考えてみても、私には「明確な規定」ができない。線の引きようがないのだ。あるとすれば「症状」があるかないかだが、それは本人の「訴え」なしにはわからないケースが多い。しかし、本人は「異常感」としてとらえてしまっているので、そのことにも注意が必要だろう。ただ、やはり、そうしたことに敏感な「神経質」といわれる性格特徴を抱えている人は、「神経症」に陥りやすい側面はあるのだろう。でも、神経質だから、みんながみんな「神経症」に陥るわけではないのでこれまた不思議。

ただ、「神経症者」がその苦悩から脱出すると、人間としての成長がみられるのも興味深い。

日本人に多い「社会死」への回避感覚は、やはり「他者」との関わりを重んじる民族性だと考えるしかないと思う。よく手紙などの締めくくりで「ご自愛ください」と書くが、他者を重んじて配慮する心遣いが感じられる。興味がある人は、例えば「英語」で調べてみるといい、実にそっけない言葉で表現されている。

だから、今回の「コロナ禍」で感染者が日本人に少ないのは食文化の「納豆」からではない、「自分が招いた行動で不幸にしてコロナにかかったとしても、家族や職場(他者)にうつしたくない」との強い心理が働き、「自粛」要請に応じる日本人の特性だと思う。

(ささ爺)

ささ爺の停留所

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